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寺報57号 2022新春

 

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寺報57号 2022新春

正信偈(27) 曇鸞大師の教え①

「本師曇鸞梁天子(ほんしどんらんりょうてんし) 常向鸞処菩薩礼(じょうこうらんしょぼさつらい) 三蔵流支授浄教(さんぞうるしじゅじょうきょう) 梵焼仙経帰楽邦(ぼんしょうせんぎょうきらくほう)」

中国において、本願の教えを最初にひろめられた曇鸞大師のお徳が高いので、梁の天子は、常に曇鸞大師の居場所に向かって「人々を教え導くためにこの世に出られた菩薩である」と敬い、礼拝しておられました。曇鸞大師もはじめは迷える人でしたが、よき師の菩提流支(ぼだいるし)より浄土の教えを授けれられ、その教えに目覚めるやいなや、不老長生を説いた外道(げどう)の経を焼きすてて、浄土の教えに帰依されたのです。

 

 今回からは、七高僧の第三祖「曇鸞大師」の章に入ります。まず一回目
は、曇鸞大師の教えの内容ではなく、どのような人であったのか、そのエ
ピソードについて、たずねてみたいと思います。


 第一祖・龍樹菩薩、第二祖・天親菩薩はインドに出られたお方でありましたが、第三祖・曇鸞大師(四七六~五四二)は、中国の高僧です。苦悩の多い青年時代を過ごされて、若くして出家され、龍樹菩薩の著作である『中論(ちゅうろん)』『十二門論(じゅうにもんろん)』『大智度論(だいちどろん)』と、龍樹菩薩のお弟子であられた提婆(だいば)の著作『百論(ひゃくろん)』を中心とす
る「四論宗(しろんしゅう)」の教えを深く学び、名高い学者となられました。


 当時の中国はおおよそ一七〇年間、南北に分断しており、曇鸞大師は北方の北魏(ほくぎ)という国にて活躍されていました。


 その頃、南方では梁(りょう)という国が栄えており、皇帝(天子)は仏教を深く学び、手厚く保護していました。もちろん、梁の天子にまで、曇鸞大師の名声は届いており、天子は北魏におられる曇鸞大師を思い、尊敬の念を込めて「菩薩」と呼んでいました。そして、常に北魏曇鸞大師がおられる処に向かって礼拝しておられたようです。この様子を親鸞聖人は「本師曇鸞梁天子 常向
鸞処菩薩礼」と示されます。

 

 ある日、曇鸞大師は仏教興隆のため、六十巻もある難解で大部な経典『大集経(だいじっきょう)』の註釈に取り掛かられました。ところが、研究生活に没頭するあまり、根を詰めたせいで病に倒れ、その作業の中断を余儀なくされたのです。御年五十歳過ぎ、志半ばで納得がいかない曇鸞大師は、偉大な経典を学ぶには健康な身体と長寿が大事であると思いつかれました。


 そこで早速、南方に向かわれ、道教の指導者・陶弘景(とうこうけい)というお方のもとで「不老長生」について説かれる『仙経(せんぎょう)』を学ばれたのです。そして、曇鸞大師は、いよいよ『大集経』の研究を再開するため、北魏へ帰られる途中、都の洛陽(らくよう)に立ち寄られたときのことです。ちょうど中国の僧侶を指導するためにインドから来られた三蔵法師の菩提流支(ぼだいるし)と会われました。曇鸞大師は得意気に不老長生の学びをしてきたことを話されました。すると菩提流支三蔵は唾を吐き捨てて、曇鸞大師を叱りつけ、本当の「無量寿(かぎりないいのち)」とは何か、浄土の教えを解き明かされて『観無量寿経』を授けられたのでした。曇鸞大師は我に返り、不老長生こそが人間を惑わす煩悩であったことに気づかれ、大切に持ち帰った『仙経』を惜しげ無く焼きすてられたと伝えられています。「梵焼(ぼんしょう)」とは聞き慣れない言葉ですが「荼毘(だび)」という言葉の漢訳で「燃やす」という意味です。


 仏教には「諸行無常」という普遍的な教えがあります。世のあらゆるものは常に移り変わり、留まることがないのです。若さも、健康な身体も、寿命も必ず縁によって手放していなかければなりません。これこそが真実です。ですから、曇鸞大師が不老長生をよりどころとされた出来事は、一時的に真実から背いておられたということになります。真実の教えを知らずに迷われたのではなく、真実の教えにであっていながら迷われた曇鸞大師だからこそ、その後は凡夫が凡夫のままで救われていく浄土の教え(=楽邦)に帰依され、一人でも多くの人々に伝えるべく、ご尽力くださったのです。