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寺報52号 2020新春

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寺報52号 2020新春

寺報52号を紹介します。年に3~4回発行している寺報では「正信偈」を味わっています。

 

正信偈(22)  天親菩薩の教え③

「依(え)修(しゅ)多羅(たら)顕(けん)真実(しんじつ)」

天親菩薩は、お釈迦さまの導きによって、阿弥陀仏の本願に出遇い、真実の道をあきらかにし、

 

この一句には、天親菩薩が何を根拠に依りどころとされたのか、また私たちが何によって迷いを乗り越えていくのかについて示されています。

 

日本人は年末年始の過ごし方として「大晦日はお寺で除夜の鐘をつき、年が明けると神社へ初詣に行く」というのが常識になっています。神社では「おみくじ」や「絵馬」「おまもり」など、日ごろの私たちの願いに応えるアイテムが多く、特に人気があるようです。なかでも京都の「伏見稲荷大社」は明治神宮に次いで、日本の初詣参拝者数第二位を誇っています。その数なんと毎年約二百七十七万人(三が日)と言われています。そもそも神さまは、お医者さんのように、専門分野があると考えられているのです。伏見稲荷にはたくさんのご利益があると謳われているのが人気理由の一つでもあるのでしょう。

 

このように、私たちの欲望に応えるかたちで存在しているのが神社であるということが分かりましたが、一方、浄土真宗のお寺とはどのようなところなのでしょうか。またなぜおまもりやおみくじ、願い事を書く絵馬などが一切置かれていないのかでしょうか。これらのことを手掛かりに「依修多羅顕真実」の一句を見ていきますと、天親菩薩が「修多羅」に依ることを根拠にされていることが分かります。

 

修多羅」とは、インドのお言葉「スートラ」の発音を漢字に写しとったもので「お経」を意味します。正確で一切歪みがなく、秩序を保っている象徴で、僧侶が七條袈裟を着けたときに左肩のあたりから垂らしている長い組み紐も「修多羅」と言います。これには、自己中心的な生き方しかできない私たちに、本当の生き方とは何かを説かれる「お経=修多羅」を披露することで、仏縁を結んでいただきたいという願いが込められているのです。

 

その願いの目当ては、真実を見失っている私です。私たち人間は、言葉によって目の前にあらわれた人、もの、出来事、すべてのものを自己中心的に判断し、分け隔てていきます。良いか悪いか、損か得か、きれいか汚いか、要るか要らないか、好きか嫌いか・・・このように二つに分けるのです。そうして人より優位にたつことでなんとか自分という人間を確立し、自分より下位にいる人を見ては安心して生きているのではないでしょうか。しかし、人は年老います。病気にもなります。今まで依りどころしていた「若さ」「健康」「仕事」「財力」がどんどん失われていくと、自分の価値がなくなっていくような気がして、心のなかが虚しさでいっぱいになります。「私の人生、こんなはずじゃなかった」と裏切られたような気持ちにさえなります。

 

さて、何に裏切られたのでしょうか。そして何に苦しめられているのでしょうか。『無量寿経』には「人間はいろんなものに執着して生きているが、独りで生まれてきたように、結局は独りで死んでいく。このような寂しく、苦しい世界に迷い続けている私のあり方は、誰も代わることができない(筆者意訳)」とあります。この一文を読みますと、苦しみの原因は、この私がつかんではなさない執着の心であることがわかります。

 

そして、裏切っていたのは誰でもない、この私であったということも知らされます。さらに、私がつくった自己中心の判断基準が自分自身をみじめな存在に仕上げているということがあきからになると、今まで自分が依りどころとしていたものではすくわれないことが分かってきます。

 

本来、依るべきでないものに依るからこそ、思い通りにいかなくなったとき、失望してしまうのです。ものごとを自己中心的にみるのではなく、ありのままに見る世界を教えているのが「お経=修多羅」なのです。

 

~そんかとくか 人間のものさし

 うそかまことか 仏さまのものさし~ 相田みつを