霊山本廟発行の『求道』2020年1月号に掲載していただきました。
「正しさ」の不確かさ
必要なものをお店に行って購入するよりも、インターネットで買うことのほうが増えてきた現代。多くの商品のなかから自分に合った一品を探し出す決め手となるのは、利用者の評価でしょう。さんざん調べて、いざ購入。しかし、使ってみると評価とは程遠い商品だったということも少なくはありません。
たくさん調べたはずなのに、なぜ失敗したのでしょうか。それは、消費者のニーズや用途が千差万別だからです。評価とは、さまざまな状況に身を置くそれぞれの人が、それぞれの思いで、これは良いものか悪いものか、便利か不便か、損か得か、高いか安いかを決めるものなのです。
これはインターネット上の話にはとどまりません。私たちは日々の生活のなかで、すべてのもの、人、出来事を自己中心的に審議判決しています。
うっとうしい雨です
でも雨がうっとうしいのではありません
うっとうしく思う心が
うっとうしくするのです
あるお寺の掲示板で拝見した言葉です。
小学生の頃、新しい傘を買ってもらって早く使いたいのに、なかなか雨が降らず悶々と過ごしたことを思い出しました。結局、二週間以上も雨は降りませんでしたが「明日だけは降らないで」と願った遠足の日にその雨は降りました。あんなに願った雨、この日だけは降らないでと願った雨。どんなお天気でも、因と縁によってもたらされる自然現象に違いないのですが、こちらの都合によって良い雨になったり悪い雨になったりするものです。これが「虚妄分(こもうふん)別(べつ)」の世界です。言葉を持つ私たちは、世の中のあらゆるものを自己中心的に分けています。そして、実はこの分け隔てする心によって迷い苦しんでいるのです。
正しさとは何かを問い続ける分別心の私に「無分別」の世界(如来)がよびかけています。