ryusenji's blog

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白雲会会報45号 2020.3

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白雲会会報45号 2020.3

白雲会発行の『お寺からのメッセージ』45号に掲載していただきました。

 

 

「今、サンガが問われている」


「いつもの留学生は今日お休みだそうですよ」と、満面の笑みを浮かべたお世話役の方が教えてくださいました。何のことか分からないので、ポカーンとしていると、後方から会話が聞こえてきました。「あの子は中国人だから、今月の勉強会は遠慮したみたいよ」「それはありがたい」やり取りはこんな調子でした。


新型コロナウイルスの流行が世界的に拡大し、中国からの留学生だというだけで、日本では排除の対象にされるようです。彼らは聞法の場に混乱を来してはいけないと参加を自粛したのでした。


ドラッグストアの入り口には「マスク売り切れています」との案内板が設置され、人混みで咳の一つしようものなら、顰蹙(ひんしゅく)を買うような状況が続いています。この感染症はもはや差別の問題に変質し、ウイルスよりも強い感染力をもって全世界へと広がっています。


それは社会現象に留まることなく、聞法の場においても蔓延しつつあると感じていた矢先の出来事でした。彼らは、月に一度の勉強会に参加できないほどの差別の目を感じていたのでしょう。


~浄土は穢土を離れてあるのではない。どこまでも穢土を包むのが浄土である~
(仏さまの世界は、私たちが暮らす欲望が渦巻く汚れた世界の極端にあるのではない。
この苦しみ多き迷いの世界を包み込む世界が浄土である)


「浄土」をこの世で実現された世界のことを「サンガ」と言います。サンガとは、儀式を執行するだけの場でもありませんし、知識をつけるだけの場でもありません。私たち人間は、関係存在のなかで生きているのですから、人生の根本問題を本音で語り合うことができる場、つまり同じ苦しみを持つ仲間と一緒に考えていく場がサンガなのです。


横浜港に停泊していた豪華客船内の感染者に対する視線は、心配の欠片もなく、まるで犯罪者扱いのようでした。そこでの隔離は、感染者の症状を和らげるためのものではなく、むしろ、排除するためにさえ見えました。
 

悲しいかな、このような悲惨な現状を見せつけられなければ、私たちは自身の自己中心性に気づくことができません。

 

先日、このようなこともありました。一家の大黒柱を亡くされたご遺族が、心にまだ癒えない傷を抱えながら初めてお寺にお参りされたときのことです。永代経懇志を納められたそのご家族は、あらかじめ用意された前方の席に座っておられました。そして、初めて聞かれたご法話に感動されて、思わず拍手をされたそのとき、間髪入れずに「ここはお寺ですよ。拍手ではなく、お念仏を称えてください」という声がお堂に響き渡りました。注意する側の人は、新入りの人に最低限のルールを教えているつもりなのでしょうが、注意された側の人は、たいていもう二度とお寺の門をくぐることはありません。すると、そこに居合わせた人は、それぞれが裁判官になり、心のなかで両者に判決を下すのです。


このように、私たちはつねに自分中心の心の物差しで社会や人々を審査し、自分でつくり上げた「正しさ」を基準に、気に入らない人を排除して生きているのです。この物差しを捨てることができず、私たちは苦しみもがきながら生きるのです。この物差しを超えて、世の中を見ていく眼を「智慧」と言い、その「智慧」をいただく場が「サンガ」なのです。


~人間、みんな裁判官 他人は有罪、自分は無罪~