「惑染凡夫信心発(わくぜんぼんぶしんじんほつ)
証知生死即涅槃(しょうちしょうじそくねはん)」
たとえ惑いに染まった私たちであっても、その信心が開かれたならば、生に迷い、死におびやかされているままであっても、人生の深い意味をさとることができるとはっきり示されました。
七高僧の第三祖「曇鸞大師」の章を読み進めています。親鸞聖人は曇鸞大師のご功績を「報土因果顕誓願」と示され、私たちの往生はただ「信心」によってのみ定まるところを「惑染凡夫信心発(惑染の凡夫に信心がひらかれたならば)」と念押しされているのが、今回ご一緒に考える箇所です。
「惑染(わくぜん)」と「惑」も「染」も共に「煩悩」の別名です。「染」という字が使われるのには、私という個人の人間が煩悩を起こしているだけではなく、煩悩の歴史に身を染めているのがこの私であるということです。宮入清次郎さんの川柳に「先祖の血 みんな集めて 子は生まれ」という一句があります。この私にいのちを繋ぐため、ご先祖には数知れない苦労があったはずです。そのことを思うと、人間には個人レベルではない煩悩の歴史があることに頷かざるを得ません。
親鸞聖人は「煩悩」について「煩は身をわずらわす、悩は心をなやます」と説明されます。煩悩の数は、除夜の鐘でも知られるように百八つと言われたり、八万四千にも及ぶと教えられますが、それらを集約すると「三毒の煩悩」と言われる「貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)」の三つにおさまります。
好きなものを思い通りにしたいと執着する心(=貪欲)・嫌いなものを徹底して排除しようとするも、思い通りにならなければ腹が立つ(=瞋恚)・貪欲と瞋恚の仕組みが分からず、もがき苦しむ(=愚痴)といった心身の迷いは「凡夫」ならではの得意技です。
この有り様を深く見つめられた親鸞聖人は「凡夫」という言葉について、
私たちの身には、無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたみの心が絶え間なく起こり、まさに命が尽きるその時まで、止むことも消えることも絶えることもない・・・(筆者意訳)
と説明してくださいます。このような「惑染の凡夫」に「信心が発する」とはどういうことなのでしょうか。ここで注意すべき点は「信心を発する」のではなくて「信心が発する」ということです。「信心」は惑染の凡夫が起こすものではなく、阿弥陀仏の他力のはたらきによって凡夫の身の上に「信心」が実現するということなのです。
それはつまり、仏さまの教えに出遇(あ)い、素直にその教えを聞くことによって、自分の本当の姿を知らされるということでしょう。自分の悪いところを言い当てられるわけですから、決して聞き入れやすい教えではありませんが、いつでも自分の思い通りにしたい私だからこそ、鏡に我が身をうつすように、本当の自分を言い当ててくださるこの教えなしでは生きられないのです。
親鸞聖人は、曇鸞大師の教えから「惑染の凡夫」の上に「信心」が開かれると「生死即涅槃」が実現すると言い切られています。煩悩によって引き起こされる迷いのために苦悩している状態(=生死)のままで、その迷いが解決し苦悩が滅した状態(=涅槃)になると言われるのです。それは、美しい蓮の花が、汚泥から咲くように、決して切り離すことができない関係にあるということです。
私たちは、思い通りになることが「幸せ」と勘違いしていますが、人生の壁に立ちはだかれることがなければ、生きることの深い意味を知り得るチャンスがないと言えます。
不慮の事故で頸椎を損傷し、手足に麻痺を負われた星野富弘さんは、口に筆を咥えて詩や絵を描き続けられ、ある作品に「辛いという字がある。もう少しで幸せになれそうな気がする」という詩を書かれました。苦悩という試練を乗り越えることによって歩むべき本当の道が見えてくると「辛」の字が「幸」になるように、苦悩の先に開かれてくる世界を感じ取る能力を仏さまから与えられることが「信心」なのです。