ryusenji's blog

掲示板法語と寺報を中心にアップします。

寺報56号 2021盆

f:id:ryusenji:20211220114646p:plain

寺報56号 2021盆

正信偈(26) 天親菩薩の教え⑦

「得至蓮華蔵世界(とくしれんげぞうせかい) 即証真如法性身(そくしょうしんにょほっしょうしん) 遊煩悩林現神通(ゆうぼんのうりんげんじんづう) 入生死園示応化(にゅうしょうじおんじおうげ)」

蓮華蔵世界に生まれて、仏さまと同じさとりの身となり、煩悩に振り回されて苦しんでる人々のため、自由自在にすぐれた力を現わして、多くの人々を真実へと導くはたらきをします。

 

 2020年のオリンピック開催都市に東京が選ばれたのは、2013年のことでした。まだまだ先のことと思っているうちにコロナ感染が拡大し、開催の延期が決定、賛成派と反対派の摩擦がおさまらないうちに強行突破されました。

 

 大会が始まると、メディアでは連日、日本のメダル数の報道がありました。銅メダルをもらって大喜びする選手もいれば、銀メダルで悔し涙を流す選手もいます。メダルの価値は人それぞれのようです。

 

 思えば、人はみな違った価値観をもって生きています。食べ物の好み、服装の好み、趣味嗜好もそれぞれなのに「常識」「当たり前」という概念で、他人どころか自分をも縛ろうとして苦しんでいます。

 

 人は何歳から年齢を重ねることを嫌がるようになるのでしょうか。誰に教えられたわけでもないのに、他人と自分を比較して「良い、悪い」「勝った、負けた」「損した、得した」とバトルを繰り広げるのは、先天性の病気のようです。自分にとって都合の悪いことは人生から排除しようともがき、どうしても逃れられないことだけ「仕方ない」と、理由をみつけて納得したつもりになっているのです。

 

 仏教では、このありさまを「生死(しょうじ)」と言います。本来、切り離すことのできない「生」と「死」なのに「生」だけに執着し「死」を嫌うのは「迷い」であると教えられます。

 

 この「迷い」からどうしても抜け出すことができない私に、何事も分け隔てをせず、事実のままに届けてくださるはたらき(=如来)に目覚めよと願われている仏さまが「南無阿弥陀仏」です。

 

 「南無阿弥陀仏」の世界に心の底から頷き、よりどころとした生き方には、蓮華蔵世界(=阿弥陀仏の極楽浄土)が開かれると天親菩薩は教えてくださいます。「蓮華」とは、どろどろとした汚泥から咲く美しい蓮の花のことです。蓮は決して綺麗な池には咲きません。あの汚い泥の池でこそ、大輪の花を咲かせるのです。お経には、煩悩からさとりが開かれることのたとえとして用いられます。

 

 そのさとりの内容を「即証真如法性身」と言われます。仏さまのさとりの内容と同じということです。「南無阿弥陀仏」を称え聞く輩(ともがら)とともに、蓮華蔵世界に生れた後には、仏さまのはたらきに参加する者となって、迷いの世界で生き抜く力を与えられるのです。しかし、この世は紛れもない「迷いの世界」ですから「好き、嫌い」などの価値観を拭うことはできませんが、その思いに執着し、自己を見失うことなく、いつでも「南無阿弥陀仏」の世界に立ち返らせていただくのです。その様子を「遊煩悩林」と表現されます。煩悩の林に溺れてしまうのではなく「遊ぶ」と言われるのは、煩悩に振り回される身のままで、仏さまのはたらきを証明していくということです。それは煩悩に縛られずに、自在に生きることでもあります。つまり、自己の本当の姿を知り、仏の眼を与えられるということでしょう。

 

 そして、その眼を他者へ向けていく様子を「入生死園示応化」と言われます。自分一人ではどうすることもできない様々な問題が実は私の信心を問い直している、という感覚を持つことを「応化」と言われるのです。

 

 五十四号で味わいました天親菩薩の「一心」とは、仏さまと同じ心、仏さまと一つになる心です。その心は、自分の努力で掴み取るものではなく、仏さまから与えられる心であるからこそ、自分だけの心に留まらず、自他を分け隔てない真実の心であると言われるのです。

 

 次回からは、七高僧の第三祖、曇鸞大師(どんらんだいし)の教えを味わってまいります。