ryusenji's blog

掲示板法語と寺報を中心にアップします。

寺報59号 2023盆

寺報59号 2023盆

正信偈(29) 曇鸞大師の教え③

「往還廻向由他力(おうげんえこうゆたりき) 

正定之因唯信心(しょうじょうしいんゆいしんじん)」

浄土に生まれることも、浄土より還って人々のためにつくすことも、すべてが阿弥陀仏の本願のはたらきによると示され、その本願のはたらきを信じるこことが、浄土に往生する正しい因であることを教えられました。

 

 七高僧の第三祖「曇鸞大師」の章を読み進めています。親鸞聖人は曇鸞大師のご功績を「報土因果顕誓願」とお示しくださいました。

 

 報土とは、阿弥陀仏法蔵菩薩の時にたてられた「自力で往生できない人々を救うために浄土を建立したい」といういが実現した世界のことです。更に「その願いが成就しなければ自分は仏に成らない」とまでわれた法蔵菩薩阿弥陀仏となられた、その道理(=因果)について前回は学びました。

 

 今回はその次の二句「往還廻向由他力 正定之因唯信心」について考えてみたいと思います。

 

 昔は「道」のことを「往還(おうかん)」や「往来(おうらい)」という言い方をしました。「道」というものは、必ず行く人と帰る人が出会うところです。登山が趣味のお方から「往路で人に会わないことほど不安なものはない」とお聞きしたことがあります。帰ってくる人は、私に先立ってこの道を歩み、様々な経験をしながら、その歩みを成就した人のことです。今、私が自分の歩む道を安心して進んでいけるのは、実は帰ってくる人の見えない力に支えられていたのです。この私を支えてくださるはたらきを「還相(げんそう)廻向(えこう)」と言います。

 

 煩悩に満ちあふれ、欲多く、いかり、腹立ち、嫉み、妬む心に支配された私たちの根底にある「自分の思い通りにしたい」という気持ちに、思いもよらない事件が待ったをかけます。予想だにしていなかった辛い出来事によって現実に引き戻された時こそ、大切な「気づき」を催促されている正念場でしょう。その機会を仏縁として受け止めることができたとき「往相(おうそう)廻向(えこう)」の歩みが始まるのです。

 

 親鸞聖人は浄土真宗の骨組みを「往相」と「還相」の二つの廻向で示されました。つまり「廻向」というはたらきの事実に二つの面があると言われたのです。そして、それらは「由他力(他力に由る)」と続けられ、自力ではなく他力のはたらきの中で生かされていくことが浄土に生まれる正しい因となると教えてくださいました。

 

 いますと、私たちは日頃、自分が生きていることに不思議さを感じることなく、当たり前だと思って過ごしています。人の力を借りずに、自分ひとりで生きてきたつもりの驕りが「年取ったらつまらん」という言葉を生み出すのでしょう。自分の力を頼りとし、自分の力を誇りとする生き方だと、臨んだとおりの結果が得られないときに耐えられなくなるものです。

 

 心理学者のV・E・フランクルは三つの価値から「生きる意味」を見出されました。人が行動し何かを創り出すことで差し出す「創造価値」、生きる体験を通して世間から受け取る「体験価値」、そして置かれた状況にどのような態度で応答できるかによって生み出される「態度価値」です。この三つのうち、態度価値だけは、競争や損得を超えた世界です。かつて、余命宣告を受けられた先輩が「余命ではありません。与命です」と言われ、辛い治療を乗り越えられて今でも聞法生活に勤しんでおられるお姿に、感銘を受けたことがあります。トラブルに見舞われた時こそ、人の本性は露わになるものです。

 

 不都合な出来事で人生が定まらないときは、心が身に定まりません。身はその出来事を受け入れているのに、心が逃げようとして、さまよってしまうのです。親鸞聖人は、他力の生活者を「正定(正しく定まる)」と言われました。人は「与えられた命」を喜ぶことができたとき、一切条件を問わない「えらばず」「きらわず」「みすてず」の阿弥陀仏の国(=お浄土)に生きることができるのではないでしょうか。そのことを親鸞聖人は「ただ信心に極まる(=正定之因唯信心)」と言われました。