ryusenji's blog

掲示板法語と寺報を中心にアップします。

寺報53号 2020春

f:id:ryusenji:20200311183945j:plain

寺報53号 2020春

正信偈(23)  天親菩薩の教え④

「光闡横超(こうせんおうちょう)大誓願(だいせいがん)」

人生が空しく過ぎることなく、迷いの道をすみやかに乗り越える仏の誓いを示されました。

 

昨年末あたりから「コロナ」という名称を耳にしていたものの、ここまで感染が拡大するとは思っていませんでした。みなさんもそうではないでしょうか。


店頭からマスクと除菌グッズが軒並み完売しています。通販サイトを見ますと、当初は商品価格が異常に高騰していましたが、最近では商品価格自体を安価に設定し、送料を高額にして販売するケースや、職場の備品を転売するという悪質な事例も増えているようです。

 

私たちは学校で「困った人がいたら助けてあげなさい」と教えられたはずです。しかし現状は、困っている人を利用し、自分だけの幸福や安心を願う人間のすがたを目の当たりにしています。なんて極悪非道な!と思われるかもしれませんが、私たちもまた感染予防のために商品を独り占めしたいと思っている張本人であることを忘れてはなりません。

 

自分だけ、もしくは自分の大切な人だけの幸福を考えて生きている存在を「凡夫(ぼんぶ)」と言います。

 

凡夫である私たちは、自分勝手な思いをもとにあらゆる価値を決定づけて生きています。

 

東京都練馬区真宗大谷派が運営する「真宗会館」という施設があります。そこに「我以外皆我師(私以外の人は、どんな人であってもみな私に大切なことを教えてくださる先生である)」という額が飾られているそうです。確かに、そう思えたら豊かな心でおおらかな人生を送ることができるでしょう。しかし、素直にそう思えるでしょうか。私たちの心の内を、今は亡き近田昭夫先生は「我以外、みな我の利用価値」と見事に言い当てられました。

 

口先では何とでも言えますが、美しい心で穏やかな日々を送ることは皆無に等しいのです。私たちが生きている世界は、各々が自分中心に利用価値を定めていく排除の世界ですから、自分もまた排除の対象になることを恐れながら生きています。

 

この不安を解消するために、いろんな幸せの材料を集めようとします。それは、家族、仕事、健康、お金、地位、家、趣味、まだまだあるでしょう。私たちは、独りぼっちになることを恐れて、これらを何が何でも失いたくないという強い思いで必至にかき集め、自分がつくりあげた理想像に自分を近づけようとするのです。しかし、これらはすべて、幸せの材料であって幸せそのものではありません。なぜなら、これらは他人と自分とを比べる時の材料でもあるからです。このように、人と比べては勝った、負けたと右往左往するあり方を「迷い」と言います。

 

親鸞聖人は「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし」と言われ、こみ上げる欲や嫉妬を果てなく打ち寄せる波に、迷いの深さを海にたとえられました。


このような苦しみの海にもがく私たちを仏さまは悲しまれて、本当のよりどころを与えたいと願われたのです。その願いを親鸞聖人は「横超の大誓願」と言われました。

 

横超(おうちょう)」とは、人間の価値観を差し挟まない仏さまの智慧をあらわします。その智慧がなければ、迷いをくりかえすだけであると親鸞聖人は受け止められたのです。

 

なぜなら、理想像へと向かう宝あつめの最後は、それらの宝をすべて手放さなければならないからです。老いを迎えると健康を失い、やがて仕事も失います。そして死んだら家族とも別れなければなりません。いくら執着しても、頑張って手に入れたものはすべてこの身から離れていくのです。このような私たちの空しい人生の過ごし方を哀れに思われて、仏さまは何とかしたいと誓願を起こされました。

 

この様子を天親菩薩は、すべての凡夫がうなずけるように示された(=光闡)のです。


親鸞聖人は、宝あつめで終えてしまう人生をむなしいと感じておられたからこそ、この「横超の大誓願」をあきらかにしてくださった天親菩薩のお仕事を喜び、讃えられたのです。