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寺報58号 2022盆

 

寺報58号 2022盆

正信偈(28) 曇鸞大師の教え②

「天親菩薩論註解(てんじんぼさつろんちゅうげ) 報土因果顕誓願(ほうどいんがけんせいがん)」

 

曇鸞大師は天親親菩薩の『浄土論』を解釈され、その深いお心をあらわされました。私たちが救われる真実の世界である浄土が阿弥陀仏誓願であることをあきらかにされ、

 

 前回から七高僧の第三祖「曇鸞大師」の章に入っています。大部な聖典に向き合うには健康な身体と長寿が必要だと考えられ、道教の指導者・陶弘景(とうこうけい)のもとで長寿の秘訣を学ばれた曇鸞大師でしたが、インドから中国に来ておられた三蔵法師・菩提流支(ぼだいるし)との偶然的な出遇(あ)いによって、身体的な長寿にこだわっている自身の愚かさに気づかれ、無量寿を教える浄土の教えに帰依されたのでした。

 

 長寿への執着という曇鸞大師の迷いの姿から、現代を生きる私たちが目まぐるしく成長する科学技術と医療によって「いのちの道理」を見失っている有り様を考えさせられます。確かに健康な身体は大事ですが、健康に留意することと、健康に執着することは別です。執着するあまり「老・病」を不吉なものとして捉え、健康や若さにしか価値を見出さないのは「いのちの法則」に反しているあり方です。これこそが、人間の本来の姿を見失って姿なのです。

 

 「老・病・死」という人生を代表する三つの苦しみから解放されたいと願うのは、いつの世も同じです。曇鸞大師もこの苦しみを乗り越えようとされたのですが、「いのちの法則」を忘れて不老長生のみを求めて迷走しておられたことが菩提流支に叱咤された理由だったのでしょう。

 

 さて、曇鸞大師が劇的な出遇いを果たした菩提流支とは、七高僧の第二祖「天親菩薩」が書かれた『浄土論』を中国語に翻訳されたお方です。この翻訳をご覧になられた曇鸞大師が『浄土論』を註釈し、解釈(=註解)されたものが『浄土論註』という書物です。

 

 そもそも『浄土論』とは、天親菩薩が『仏説無量寿経』のおこころを解説されたものですから、曇鸞大師は『無量寿経』の註釈書を更に註釈されたことになります。

 

 このところを親鸞聖人は「正信偈」に「天親菩薩論註解」とうたわれ、もし曇鸞大師の『浄土論註』という書物がなかったなら、難解な天親菩薩の『浄土論』だけでは到底『無量寿経』のお心を深く知ることが叶わなかった!という感動と喜びを示されているのです。

 

 それだけでなく、

  

この関係性の何か一つ欠けていれば、今の私はあり得ない!という熱い思いが「親鸞」という名前にも込められています。実は、親鸞聖人のお名前は、天菩薩の「親」と、曇大師の「鸞」をいただかれて命名されたものです。

 

 親鸞聖人が『浄土論註』から学ばれた内容について、今回はまず「報土因果顕誓願」をたずねてみましょう。

 

 阿弥陀仏は仏さまになられる前、法蔵菩薩の時に、世の人々をご覧になられて「真実を見失って迷っている者を救いたい」という願いを建てられました。この願いが届く世界を「報土」または「浄土」と言います。そして、願いが私たちに届いて成就する道筋のこと、つまり救いの道理を「因果」と言います。曇鸞大師はこの「報土の因果」について、二十九種類の様子で表現されます。

 

 たとえば、浄土には「羅網(らもう)」という鈴のついた網が張られており、風が吹くと鈴が鳴って、それを聞く者には説法として聞こえる様子が描かれています。

 

 阿弥陀仏が迷っている私たちを救うために尽くしてくださるあらゆる手立てを、曇鸞大師は大きく二十九種類に分類して描写されたのです。

 

 このように、様々なはたらきかけによって私たちは真実の世界を教えられます。最近では浄土真宗の教えを癒しとして求める傾向がありますが、本来「浄土を真(まこと)の宗(むね)とする」ということは、ものごとの真実をしっかりと見極め、日頃の生き方、過ごし方、考え方を見つめて改めるという教えのはずです。

 

 つい、自分の都合に合わせたものの見方しかできない私たちに「どうか真実の世界に生きてくれ」との阿弥陀仏誓願報土(=浄土)となってあらわれている様子を親鸞聖人は「報土因果顕誓願」の一句でうたわれました。