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寺報55号 2021新春

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寺報55号 2021新春

正信偈(25) 天親菩薩の教え⑥

「帰入功徳大宝海(きにゅうくどくだいほうかい) 必獲入大会衆数(ひつぎゃくにゅうだいえしゅうじゅ)」

み仏より差し向けられた宝の海のような名号をよりどころとしてこそ、よき師、よき朋(とも)に恵まれて、必ず法をよろこぶ身をさせていただくのです。

 

 昨年、令和二年は、新型コロナウイルス感染症の話題で持ちきりでした。今もなお終息を迎えておらず、不安な日々が続いています。

 

 自粛生活中には、いろんなお方と手紙や電子メールのやり取りをしましたが、その中には「仏さまにコロナを撲滅してもらいたい」というような内容もあり、日ごろ私たちが仏さまにどのようなイメージを抱いているのかを再確認する機会にもなりました。

 

 さて、私たちの仏さまとは病気を治してくれたり、疫病を収めてくれたり、事故や災難に遭わないようにしてくれるような、望みを叶えるための存在なのでしょうか。

 

 私たちは、自分の都合に即した仏さまを作りがちですが、本当の仏さまとは、そのような自分勝手なものの考え方をしている私に、真実を教えてくださる存在なのです。

 

 人間は自分をまもるために嘘をつきます。時には、綺麗でないものを綺麗だと言い、美味しくないものを美味しいと言い、可愛くないものを可愛いと言うことがあります。病気でやつれている人に「元気そうで安心した」とさえ、言います。しかし、仏さまは、まるで鏡で我が身を映したときのように、たとえ自分にとって都合が悪く、受け止め難いことであっても、ありのままに伝えてくださいます。それはつまり、縁によって起こり得る出来事、病気、老い、怪我、災難などを選り好みせずに、そのまま私に届けてくださるということです。

 

 仏さまのおはたらきを「如来」と言いますが、その語源は、事実のままに(如)届ける(=来)ということなのです。

 

 「良いこと」も「悪いこと」も全て縁によって生じ、ありのまま私のところに届けられます。そこまでは真実の世界ですが、そのありのままを受け取る私の心が「良いこと」はあって当たり前、「悪いこと」は起こるはずがない、という理想の世界を作り出しているのです。その理想という仮の世界にいる私に「真実の世界に立ち返れ、目覚めよ」と願い、呼びかけてくださる言葉の仏さまが名号南無阿弥陀仏」であり、先に天親菩薩は「帰命無碍光如来」と言われました(第51号内容)。

 

 それは、どれだけ「ああなりたい、こうなりたい、私の人生こんなはずじゃなかった」と思っても「まさに今、ここで、この状態にある」という現実だけが疑いようのない真実であることに目覚めるほかありません。その目覚めを天親菩薩は「一心」と言われ(前号内容)、「南無阿弥陀仏」という名号によって真実の世界に気づいていくことを『正信偈』には「帰入功徳大宝海」と表現されました。南無阿弥陀仏の名号(=功徳)によって目覚めさせられる世界を限りなく広い宝の海(大宝海)にたとえられているのです。

 

 そして、自分の心で思いはかるのではなく、ありのままの真実の世界(=如来)に生きるならば、よき師、よき朋に恵まれて必ず法をよろこぶ身にさせていただく(必獲入大会衆数)と言われます。

 

 「大会」とは仏さまが説法をしておられる場、「衆」とはその場の一員となることです。目の前に現れた縁によって一喜一憂して生きる私であっても、よき師によって疑いようのない真実の世界を教えていただき、その世界を知らせてくださる名号、南無阿弥陀仏をよき朋(なかま)と称え聞いていく(=称名念仏)ことがそのまま「大会衆の数に入る」ことになるのです。

 

 仏さまの説法とは、予想不可能な出来事をはじめ、生まれながらにして持ち合わせてきたいのちの宿題「老・病・死」でもありましょう。つまり私たちにとって思い通りにならない出来事こそが仏さまの説法であり、そのような辛い出来事を通してますます聞く身にさせていただくのです。「聞く」とは、本当の自分にであうこと、そして課題を与えられることです。

 

 本当はありのままの世界にいながら、自分の思いはからいによって右往左往している・・・これが私の本当のすがたなのです。